エッセイ
シリア民主化運動に思う―多様で複雑な背景
市嶋典子
2000年から3年間,私は,シリア・アラブ共和国のダマスカス大学で,JICAの青年海外協力隊および短期緊急派遣の日本語教師として日本語教育に携わった。
シリアは北にトルコ,東にイラク,南にヨルダン,西にレバノン,南西にイスラエルと国境を接している。言語はアラビア語が公用語で,宗教はイスラム教スンニ派が主流だが,他にもシーア派,アラウィー派,イスマイール派,ドゥルーズ派などに属する人々がおり,キリスト教徒も10%ほどいる。住民にはアラブ人のほか,クルド人,アルメニア人などがいる。政治的には,バアス党(アラブ復興社会党)単一の社会主義国で,バッシャール・アサド大統領が属するアラウィー派が政治,軍事の中枢を独占している。
私がシリアに赴任していた当時は,街の至るところにアサド大統領の写真が貼られ,大統領が全国民に支持されているような雰囲気が満ちあふれていた。一方で,政権批判は私の担当していた日本語の授業の中でもよく聞かれた。政権に対する批判や不満をあからさまに口にすることはタブーとされていたが,ブラックジョークやパロディーという形で表現され,人々の間で共有されていた。
彼らがブラックジョークを述べる時,その底流には,現状を変えることができないことへのあきらめや自虐のニュアンスが含まれていたように思う。しかし,民族や宗教が多様で複雑なシリアを治めるためには,アサド大統領のような独裁者が必要であるとも言われていた。
昨年3月,約10年ぶりにシリアの首都ダマスカスに赴いた。街の様子は当時とほとんど変わっていなかった。スーク(市場)では,多くの人や物が行き交い,新鮮な野菜や果物,色鮮やかなオリーブや香辛料であふれていた。教え子たちとも再会し,懐かしい地元の料理に舌鼓を打ちながら,思い出話に花を咲かせた。シリアを再訪した大きな理由の一つは,私の親友アマルに会うためであった。
彼女は私が赴任していた当時,ダマスカス大学経済学部の学生であった。趣味で日本語を学ぶうちに,日本語の楽しさに目覚め,大阪外国語大学(現大阪大学)への1年間の留学も経験した。卒業後は,会計士としての職を得ていたが,仕事の合間を縫って私の職場を訪れ,無給で大学の校務や教育に関わることをサポートしてくれた。常に意見をはっきりと述べ,反論も辞さないアマルの姿勢は,大学側の反感を買うことも少なくなかった。それにもめげず,彼女は,組織を良くするために私と共に奮闘し続けてくれた。彼女の態度は一貫していた。社会の中に流布する宗教や性別,制度の「主流」,規範を備えているものを決してうのみにせず,時に批判的であり,これらの枠組みを変革していこうとする不断の姿勢と覚悟があった。このような彼女の信念は私の日本語教育の活動に大きな影響を与えた。
私のちょうど帰国日に反アサド大統領派のデモが勃発した。現在も政権側と反体制派との衝突は続き,多数の犠牲者を出す深刻な事態に陥っている。私の教え子の中にも民主化運動に参与している者が複数いる。彼らは,独裁政権に対して命がけの異議申し立てをしている。アマルのような信念が民衆の中で満を持して結実し,社会変革を望む民主化運動へとつながっていったといえるだろう。
私はこの変化のうねりを複雑な思いで見ている。仮に民主化が実現したとして,その後,シリアはどうなっていくのか。教え子たちの数人は,アサド政権が倒れたとしても,争乱は収まらないだろうと予測している。今まで封じ込められてきた民族や宗教,宗派の違い,そこに内在する不平等や対立が浮き彫りになり,さらなる争いや混乱を生むとみている。また,外部勢力が介入したとしても,シリアの複雑な背景を把握できない限り,問題解決には結びつかないという。
シリアでの経験は,私の研究や生きることの意味に対する絶え間ない問いかけとなって,現在も生々しく思い起こされる。私にとってシリアは,一般的にいわれるような血なまぐさい戦闘が続く危険な地でも,悠久の歴史や世界遺産に代表される魅惑の観光地でもない。私を支えてくれた多くの友人が生き,私の言語教育観に大きな影響を与えてくれた,かけがえのない地なのである。
一日も早くシリアに平和が訪れ,アマルや教え子たちに再会できる日が来ることを願ってやまない。
出典
- 市嶋典子(2012年9月5日).シリア民主化運動に思う――多様で複雑な背景『秋田魁新報』朝刊・文化欄.