エッセイ

願い
市嶋典子

2000年からの約3年間,私はシリアのダマスカス大学で日本語教育にたずさわった。もう10年も前のことになるが,当時の学生や同僚,友人との交流は今でも続いている。シリアは,私が言語教育への道に進むきっかけを作ってくれた忘れがたい地でもある。そのシリアが現在,内戦状態にある。多くの町や遺産が破壊され,見る影もないという。知り合いの中には,行方不明になった者,命を落とした者もいる。何かできることはないかと尋ねると,友人達はただ無事を祈ってくれと答えるばかりだ。

マスコミは,シリア情勢を政府側と反政府組織との対立として取り上げているが,状況はそんなに単純ではない。海外勢力やテロ組織の関与,宗教,宗派,民族の対立,住民の不満などあらゆる要素が絡まり合って,状況を悪化させている。カオス状態にあるという。友人や教え子達は,皆,言葉にできない思いを胸に秘め,息を潜めて,内戦の収束を待っている。政治的な立場表明をすることは,場合によっては,命の危険を招きかねない。

私が今,願うことは,とにかく皆,生き延びて欲しいということだ。命さえあれば,生活を立て直すことができる。また共に笑ったり,考えたり,権力を批判することさえできるようになるかもしれない。身の危険を感じずに,怒りや願いを自由に発せるような健全な状況が訪れて始めて,心身の疲弊から解き放たれ,生を満喫できるだろう。私はその時が来るのを静かに,強く,願っている。

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